STORY 3

どこでもない天津飯

全4品、コース仕立ての料理はスープに前菜を終え、メインの品が出てくるまでのあいだ、しばらく間があいた。

集う人たちはのんびりと心待ちにしながら、食についてそれぞれが思っていることをポツポツと語りあっている。

ひとりは前期高齢者になってから、今まで食べていたものが受け付けなくなってきたという。小麦を食べるとあとで調子が悪くなったり、糖分を多めに摂ると体がきつかったり。「控えよう」と心がける一方で、「食べていい」とも思っている。矛盾するようだけれど、そのどちらもが自身の気持ちだというのだ。

また別のひとりはもともと食への関心が薄く、ほとんど家で料理もしなかった。ただ40代で初めて出産をしてから、せめて子どものためにと、毎日味噌汁を作るようになった。その「自分が自分じゃないような体験」によって「やっぱり食事は楽しむことも大事」と思えるようになったという。

「食べる」という行為ひとつとっても、多面的な意味がある。

そんなことを感じている間も、厨房はさも忙しそうだった。カウンター向こうでは料理家ふたりとスタッフを加えた3人が、たがいの間を縫うように、行ったり来たりしている。

調理の際、大きな音を立てながら、派手でパフォーマティブな動きをするコックもいるけれど、彼らはまったく逆だった。すこぶるキレはいいけれど、どこか不思議なほどの静けさを醸している。まるで早送りした能の舞台を観ているようだった。

そんな様子に目が釘付けになりながら、心では先日会社の研修で受けた「SNSマーケティングセミナー」のことを思い出していた。

SNS運用の講師曰く、人はインスタを開くと、フィードよりもリール投稿ばかりつい見たくなるのは、動画のほうがコンテンツに没入しやすく、より長く見続けられるからだという。

「人が動いていると、人は追いかけたくなるものなのです」

なんて、まことしやかに講師は語っていたけれど、果たして本当にそうだろうか。だとするならば、この現実の世界は、どこかしこで常に人が動いている。街に出れば、いつだってでくわせるし、その気になれば話だってできる。なのになぜ「スマホ」という小さな画面でちょこまか動いている人の姿を、人はなぜ見たくなるのだろう。

もしかすると、この目の前で起きている光景と、何か関連があるのではないだろうか。

思い当たったのは「枠」だった。彼らが料理を作るところを今、カウンターという「枠」を通して見ている。そういう意味ではリールも、なんならテレビも映画も、画面という「枠」がある。もしかするとそのほうが、ただ漫然と世界を眺めるより視点が定まり「つい見てしまう」のではないだろうか。

さらに眼差しをそらすと、窓向こうに庭が見える。夥しい数の木の葉が、風まかせに揺れている。これもまた窓という「枠」があるからこそ、こんなに魅かれるのかもしれない。

「……なんか、枠を感じるんですよね」

ぼんやり思い耽っていると「枠」という言葉が、実際に耳をかすめたので驚いた。

「私はまわりからよく『こだわりが強いね』って言われるんですけど、全部においてこだわっていると思われがちで。『こだわり』という言葉に枠を感じる。ただ本来は、人によって許容の幅が違うだけなのに」

そうこうしているうちに、いよいよメインの品が登場した。茶色い透明のあんに包まれ、こうごうしく照り輝く幸せの黄色い山。天津飯だ。

カウンターの中から、ひょいと料理家が口火を切った。

「天津飯って、実は天津にはないらしいですよ」なんと中国では存在せず、日本で独自に編み出されたメニューだという。

「それって、ナポリタンと一緒ですね」と別の参加者が加える。地名を冠しているにもかかわらず、そこの名物ではない料理。実際に食べてみると、黒酢あんは中華だけど、ルックスはなんだか洋風にも見えるし、中のごはんは刻んだ大根の青菜を混ぜた菜飯で、どこか和な風も吹かせている。まさに「どこでもない天津飯」だ。

物事にはいろんな「枠」がある。人はついその中を見て収めてしまうけれど、それを超えるということに、驚きと面白みがある。

そんな思ったことを口にすると、ひとりが「それでいうと、私もちょっと感じていることがあるんです」と、忍びこむように語りだした。

「私、チェンバロをやっていて。自分なりに弾いてるんですけれど、昨日はイタリアンチェンバロのレッスンを受けたんです。これは独自の表現があって「歌うんじゃないんです、語ってください」って言われる。ひとつひとつの切れ目をちゃんと入れる、それがはっきりしてるという、カチッとした枠があるんです。最初はね、窮屈な感じがします。だけどいったんこうした枠の中に閉じ込められないと、本当の自由は得られないんだということも、すごく感じるんです」

人は「こうあるべき」という枠に、おのずと縛られて生きている。だからまずは、その枠を意識すること、時にそれを超えることで、新たな表現や体験が生まれることもある。

卵をくずして食べながら、さて家に帰って何を作ろうかと考えていた。